今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

罪穢れを取り祓って頂くということ

銀座だより10月号「お徳の中で」より(6月30日上半期感謝祭・夏越大祓後の教話)  上半期感謝祭と夏越大祓(なごしのおおはらい)を仕えさせていただきましたが、夏越大祓は初代親先生が、古くから地域の人たちの生活の中で受け継がれてきたお祭りを大切にして仕えてこられたので、今でも仕えさせて頂いているのです。このお祭りは、私たちが日々に積み重ねてきた罪穢れ(けがれ)を取り払っていただくお祭りです。  上半期感謝祭は、年度替わりや卒業、入学などいろいろなことの一つひとつへのお礼のお祭りなのですが、一番大切なのは根本のお礼です。生かされて生きていることへのお礼なのです。  日々の暮らしの中で起こってくる様々なことへのお礼は言えるのですが、一切のことを神様から恵まれて生かされて生きていると教えられていましても、頭では分かっていますが本当に心からお礼が言えているとは思えません。  二代親先生の十年祭に刊行した「まなざし」の中に「私たちは体内の器官の働きがバランスを保ち続けているから生きていられるのです。そこに神様を感じるか感じないか、それが大切です」という言葉があります。また「自分に出来ないことは“神様足してください”とお願いします。実は自分が出来ると思っていることも、おかげでさせて頂いているのです」という言葉もあります。  当たり前のように思って殊更(ことさら)お礼を言っていませんが、勉強ができたり、仕事ができたり、私たちの日々の生活は九十九パーセント神様に足して頂いて生活できているのです。そのお礼が根本のお礼なのです。  『信心していれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多い。後で考えてみて、あれもおかげであった、これもおかげであったということが分かるようになる。そうなれば本当の信者である』という教祖様のみ教えがありますが、このお礼が真のお礼ということであり、そのお礼が出来るようになることが大切なことなのです。  罪穢れとか、ご無礼お粗末とはどういうことなのでしょうか。一般的に罪と言えば、法律を犯していることを言いますから、法に触れるようなことはしていないから罪はないと思っています。  信仰の上での罪というのは、神様から見ての罪ということなのです。「ご無礼、お粗末」も同じです。すべてに恵まれて生かされて生きているのに、働かなかったり勉強しなかったりするのはご無礼なのだと教えられていますし、天地から恵まれているすべてのものを、自分勝手に粗末にすることは、お粗末の罪ということになります。  私たちは知らず知らずのうちに、ご無礼お粗末をしています。大切なのは、そのことを自覚して、お詫びして改まっていくことなのです。ただごめんなさいとお詫びすればいいのではなく、なぜお詫びしなければならないかということを分かって、改まっていかなければなりません。信仰の上で、罪穢れを取り祓って頂くとはそういうことなのです。心の問題なのです。  私たちが、おかげを頂けない原因は、知らず知らずのうちに積み重なってしまったご無礼が、罪となりめぐりとなっているからなのかもしれません。  知らず知らずのうちに積み重なってしまっていることを自覚することは、難しいことかもしれませんが、気付かせてくださいとお願いすれば、日々の生活の中で起こってくるいろいろな事柄を通して気付かせてくださいます。それを一つ一つ改まっていくことが信心なのです。  本当の自分自身を知って、本当のお礼、お詫び、お願いができるように信心を進めさせて頂きたいと思います。