今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

信心の裏付け

銀座だより9月号「お徳の中で」より(7月1日月例祭後の教話) 7月3日は私にとっては祖母にあたる初代親奥様(湯川ツヤ姫)の祥月命日です。祖母は湯川安太郎玉水教会初代大先生の長女として生まれました。7歳の時に大先生が布教されることになったので、布教される前の商人としての信心生活や、二間間口の小さな布教所からの大先生の信心生活の中で成長していったのです。 ある時お腹が痛くなって、大先生からお広前へ行って神様にお願いしてきなさいと言われて、一生懸命にお願いしているといつの間にか治ってきた。気が付いてみると後ろで大先生がご祈念して下さっていた、と話していました。幼い頃から神様とつながった生き方が身についていったのです。 やがて成長して大先生の一の弟子であった初代親先生と結婚する頃には、教会も大きく立派になって何不自由なく過ごしていたと思いますが、初代大先生の思いを受けて東京に布教することになって、それから教会長夫人として、小さいときから身に付けてきた教会家庭での信心生活の実践が始まるのです。 番傘をすぼめなければ通れないような路地の奥に布教所が開設されたのが大正十二年の一月で、その年の9月には関東大震災でその布教所は焼失してしまいます。今から九十五年前のことになります。 震災後、間借りしながら教会の復興に取り掛かろうとしているときに、大先生から学生を差し向けられます。学費を始め衣食住一切の面倒を見るのです。 初代親先生にとっては師父である大先生の思いを無条件に受けていかれても、現実に生活一切の面倒を見るのは祖母です。自分の生活もままならない時に大変なことだと思うのですが、愚痴一つ言わずに受けていったのです。学生の数も年々増えて、ある年には、みんなにレインコートを買い整えようと思うと十着ぐらい買わなければならなかったと話していました。その生活を共にしていた父(二代親先生)は「おそらく自分のものなど買ったことはなかったと思うが、一度も愚痴を聞いたことがない」と話していました。また人に何かを分かってもらいたいと思ったときは、パッパッと言わずに、その人が聞く耳をもって聞いてもらえる時節を与えられるようお願いしてから言いますから、言われた方はビシッと心に響くのです。いつでも神様と首っ引きで生活していたのです。「人を思うこと人後に落ちず」「神様御主人、自分は奉公人」という大先生の信心を東京で実践していったのだと思います。 祖母と言えばお神酒さんを吹いて、医者から見放された人達を何人も助けさせて頂いたと聞いています。祖母自身も「医学が進歩しているときに、押し付けるつもりはない。何事も信心でおかげを頂いて下さい」と話していますし、医療を受けるのも神様のお計らいですから、医療や薬を否定するわけではありませんが、日常生活での私たちの神様への向かい方を教えられているように思いますので話しておきたいと思います。 最初は「どうぞこのお神酒さんでおかげを頂かせてください」とお願いして吹いていたのですが、これでは自分が吹いているので、吹いてもらう人と神様との間に隙間があるように思って、「直接神様からおかげを頂けるにはどうすればいいか教えて下さい」と長いことご祈念して気付かせて頂いたことは、「先生に成り代わりまして吹かせていただきます。おかげ頂かせてください」とお願いして、吹くときは「生神金光大神、天地金乃神様ありがとうございます」と無念無想で吹くのだと話していました。 信心は日常生活で実践しておかげを頂いて、それを信心の裏付けとして積み重ねていくことで、神様に喜んで頂ける信心になるのです。