今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

お徳の中で 教会長 銀座だより6月号

 春の御大祭は天地金乃神様のお祭りです。私たちは日々天地の神様のおかげを頂いて生かされて生きています。生かされて生きているということは、分かっているようでよく分かっていません。それは自分の都合中心の思いや考えで生活をしているからです。  湯川安太郎玉水教会初代大先生は「信心は神様になるけいこをしているのだ」と教えて下さっています。  「私のようなものが神様になるなんて、とてもとても」という言葉がすぐに聞こえてきそうですが、私たちは神様の子として生まれてきているのです。  しかし、成長するにしたがって様々な知識を身に着け、いろいろな思いや考えを持ちます。その思いや考えが、自分で正しいと思えれば思えるほどその思いや考えにこだわるようになります。この思いや考えはほとんど自分の都合中心の思いや考えですから、「こだわり」が強いほど人の話も聞けなくなり、自分の心が乱れるだけではなく、周りの人たちにも悲しい思いをさせることになり、様々な難儀の元が生まれてくることになります。 初代大先生は「信心とは一度死んだと思うて、我をはなれて、われに死して神に生きることだということになりはしませんか。これは一足飛びにはいきませんが、三年、五年と骨折っていきましたらやがて神様に会うことが出来ます」  そして、周りの人から「あの人は信心するようになってから生まれ変わったようになったと言われるようになると、われに死して神に生きた証拠ですわ」とも教えて下さっています。  学校では四月から新学年が始まり、社会では新しい年度が始まります。学校では試験があり、社会では勤務評価をされますが、自分の評価は自分でするものではありません。信心も同じで、神様は物事や人の口を通して教えて下さいます。  信心をして生まれ変わって「新人」になり、神様の思し召しに沿った「真心」になり、「神心」になり、やがては神様と一つになって「神人」になるのだと教えられているのです。  「我」とは私たちの「こだわり」と言ってもいいと思います。  教会へきて話を聞いて、神様の思し召しが分かるようになってきますと、少しずつ自分の都合中心の「こだわり」から離れられるようになり、人の口や物事を通して神様が教えて下さっていることが分かるようになってきます。  こうして少しずつ神様の思し召しに沿った思いになって「真心」になり、やがて「神心」と言えるようになってくると神様と一つになった「神人」になってきます。  初代大先生は「そうなりましたら、信心も行き着くところへ行き着いたということになり、本当に“助かった”ということになる」。そして「信心は、生きている間に神様になるけいこですから、ぜひそこまで行きつかせて頂かねばなりません」と教えて下さっています。  私たちが信心しているのは、日常の目先の問題のおかげを頂くことで精一杯で「生きている間に神様になるなんて」と思いがちですが、神様は私たちの親神様です。何か事があるときは、その前に神様からのお気付があります。  信心は一足飛びにはいきませんが『日に日に生きるが信心なり』と教えられています。お広前で話を聞いて、日々の物事を通して神様の思し召しを受け取れる心になっていくのが「信心生活」と言われる生き方です。  御大祭を通して改めて、心を神様に向けて、生かされて生きていることのお礼を申し、やがて神様と一つになって本当に「助かった」と言える信心へと進めていくのです。