今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

「神様を本当にお祀りする」とは

「銀座だより」2015年7月号 「お徳の中で」より

玉水協会の湯川安太郎初代大先生がまだ信者時代のこと、商売に行き詰られた大先生は、それまでの自分が神様に信心をしながらも、実は自分の腕を信じて商売し、そのために苦しんできたことに気づかれます。それで、これまでの生き方を神様にお詫び申し、今後は“神様がご主人”、自分は神様に使って頂く“奉公人”に徹することを決意されます。そして、生活のすべてを神様のお心に沿うよう努めていくことを誓う八つの約束をなさいました。それは大先生のご信心の一大転機となり、ご自身も「このときから、私はどうやら本当に神様をお祀り(おまつり)申し上げることができるようになったと言える」とおっしゃっています。では、「本当に神様をお祀りする」とは一体どういうことなのでしょうか。

私たちは信心をさせて頂いて、教会にお参りしてご神前に手を合わせます。また、自宅にお社を作って神様にをお祀りしている方もおられるでしょう。

教祖様が『神様に出会おうと思ったら、庭に出て見なさい。上が神、下が神』と言われているように、私たちは四六時中、天地の中、神様の中で暮らしているのです。この神様は宇宙の根源、万物の源、天地の親神様です。小さなお社にお祀りされて納まっているような神様ではありません。そういう意味では、お祀りする必要はないとも言えます。

では、なぜお祀りするのかというと、それは、私たちの心に神様を失わせないようにするためです。天地のお恵みを頂かなくては一秒たりとも生きられない私たちなのに、私たちはそのことをよく忘れ、心に神様があったりなかったりします。ですから、神様を思い起こすために、形の上でお祀りするのです。

けれども、大先生が「本当に神様をお祀りする」と言われているのは、単に形の上でお祀りをすることではないでしょう。我が家に神様をお祀りするということは、神様をその家の“ご主人”と仰いで生活をしていくということです。何事も“自分が”と思わずに、神様にお願いし、神様の思いに沿うように努めて、させて頂くのです。

たとえば、子育てなら、「子どもが言うことを聞かない」と言う前に、まず親として自分が改まることを願い、神様と一緒に子育てさせて頂くことです。夫婦関係でも「相手がけしからん、自分は正しい」というのでは、“自分が主人”になっています。それよりも、「相手があってこその自分である」と、互いに敬い合い、夫婦円満でいけば神様も喜ばれます。仕事や商売でも、自分でやろうとするから、あれも心配、これも心配となる。神様のお仕事として、一緒にさせて頂くという心になれば、神様はどこまでも付きまとって手伝って下さいます。病気もそうです。神様が造りお与え下さった体なのですから、故障したときには神様に修繕をお願いしたらよいのです。

そのように“神様がご主人”と仰いで、生活のすべてに信心を織り込んで行けば間違いはありません。それができないのは、お願いをしたら神様はちゃんと面倒を見て下さるのだということを体験として分かっていないからです。神様のおかげと言うことが、分かれば分かるほど、お願いをせずにはいられません。

初代親先生は何かコトンと音がしただけでも信心で考え、つねに神様と一緒に生活をされていました。おなかが痛くなったら、何か食べ物にご無礼がなかったか調べたと言います。

それだけ神様に心を向け、いつも“神様がご主人である”ことを忘れずに、日々の生活を求めていけば、おかげ頂けないはずはありません。「神様を本当にお祀りする」ということはそういうことなのです。

(4/25月例祭)