今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

人間の尺度、神様の尺度

「銀座だより」2015年5月号 「お徳の中で」より

玉水教会の湯川安太郎初代大先生の布教初めの頃の思い出話に、他の教会から「信者を取った」と非難を浴びせられて非常に辛い思いをされたというお話があります。よほどお辛かったのでしょう、思い悩んだあげくに「先生をやめさせて頂こう」と思い、ご本部に参り、教祖の奥津城で心中を申し上げられます。

このお話を読ませて頂き、私がここに心を留めたのは、大先生がここでは“神様ご主人”とも思えない思いを吐露されていることです。「だいたいあなたが悪いのです。私は開拓布教をお願いしているのに、どうしてよその教会の信者をお引き寄せなさるのですか」と素直に教祖様に思いをぶつけておられます。

“私が正しい、神様が間違っている”という考えは、本来の大先生の信心からすると違うのですが、ここではそう申されています。

それに対し教祖様は『お前はよその教会の信者というが、金光教の教会はみな金光大神の広前である。うちの、よそのという区別はない。共に同じ神へのご奉公なのだから、迷っている者は助けてやってくれ。その方が大切なのじゃ』と諭されます。大先生はなお「それは分かりますが、どうにかして頂きませんと困ります。私は身を切られるよりも辛い非難を浴びせられております」と食い下がりますが、「まだ神の言うことが分からんのか」とたしなめられ、引き下がるほかなくなります。

人間の尺度からすると、大先生のおっしゃることはもっともなことです。“神様はそうおっしゃるけれど、人の世の中、皆が神様のように理解してくれるわけでなし、正しいことをしても誤解され非難を浴びせられたのではやりきれない”私たちもこのように、“こんな理不尽なことは我慢ならない”と思うことがよくあります。

けれども、ここで私たち人間の尺度とは別に、神様の尺度があることを考える必要があると思います。往々にして私たちの尺度と、教祖や神様の尺度は違います。教祖様の御理解に『人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし、乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ』とありますように、神様はちゃんと見ておられます。いくら人から誹謗中傷されても気に病むことはないのです。

また、私たちは“自分は間違っていない、非は相手にある”と思い、腹を立てたり、相手をねじ伏せようとしたりすることもよくあります。しかし、それによって状況はよくなるよりもむしろ悪くなることのほうが多い。自分の正義を通そうとするよりも、相手の思いや立場にも思いをやり、共に助かる道を歩ませて頂くことを神様は喜ばれます。そういう神様の思し召しを分からせて頂かなくてはいけないと思います。

どうしても今の世の中は理屈でものを考え“自分は正しい”と主張しないとやっていけないようなところがありますけれど、本当はそのような我情我欲は必要なくて、裸でまるまる神様におすがりするような心にならせてもらうことの方が大事なのではないかと思います。そうすれば、大先生のように神様の声を聞かせて頂くことも、神様の思し召しを分からせて頂くことも出来るようになる。

そのためには、心がつねに清らかな心であるように、角立つ心が丸くなるように、信心の稽古をさせて頂くことです。

あの大先生ですら最初から完璧な信心が出来ていたわけではありません。大切なのは出来ることから始めさせてもらうことです。神様の願いと自分の願いが一つになる、そのような心の改まりができれば、自然とおかげが頂けるようになってくるのです。

(2/25月例祭)