今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

布教記念祭について

「銀座だより」2015年4月号 「お徳の中で」より

『銀座だより』の二月号に銀座教会の布教記念祭についてのお話が載っています。これは湯川誠一初代親先生が一月二十日の布教記念祭の折にいつも話しておられたことを、昨年亡くなった塩谷治雄先生がまとめて下さった文章です。

これを読ませて頂いて、改めて布教当初の初代親先生のご苦労が偲(しの)ばれるとともに、親先生が毎年の布教記念祭を大切にお仕えになっていたことの意味を分からせて頂きたいと思いました。

初代親先生は大正十一年四月二十六日に、玉水教会の湯川安太郎初代大先生の東京布教の願いを受けて上京されましたが、なかなか布教の許しが得られず悲惨な思いもされます。また布教初めは大正十二年一月二十日、木挽(こびき)町の路地裏の小さな古い借家からでした。神様から「八月の末には引っ越しをせねばならない」とお知らせを頂き心待ちにしていたら、関東大震災に見舞われました。

神様はなぜそんな苦労を初代親先生にさせられたのか。玉水教会ですでに十分に修行を積み、徳も積まれていた親先生にわざわざ一から修行をさせる必要はないではないかと、つい思ってしまいます。けれども後から振り返ってみれば、生粋の大阪人であった親先生が関東大震災の苦労を共にしたことによって、東京人の仲間入りができ、布教がしやすくなったこと、また震災のおかげでこの銀座に金光大神のお広前を建設するお土地を得られたこと、そうしたことを考えますと、やはり神様の深い思し召しであったのだと思うほかはありません。

初代親先生は、布教記念祭を「私自身が布教初めを忘れたいためのお祭り」、また「その布教によって助けられた第一号が自分自身である」と受けとめられ、東京の信奉者を代表して玉串を奉奠(ほうてん)し神様にお礼を申しておられました。

初代親先生は、すでに大阪で玉水の大先生に助けられておかげを頂かれていました。けれども「東京に来て助けられた第一号は自分である」と思われたのは、東京に来て難儀をしている多くの人たちと同じように自分も東京で苦労を味わい、おかげを頂いて乗り越えさせて頂いたという実感があったからだと思います。いわば“東京にいる多くの難儀な氏子”の一人として、助けて頂いたお礼を申されていたのだと思います。

私たちも、その初代親先生の思いをしっかりと頂いて、信心を進めさせて頂かなくてはならないと思います。今日お参りされている皆さんの中には、親や祖父母から信心を受け継ぎ、二代目、三代目、あるいは四代目の方が多くおられますが、頂いているおかげの元を忘れないということが大切です。初代親先生を筆頭に、大勢の信奉者、皆さんの親先祖が初代大先生の東京布教によって助けて頂いた、そのお礼を申し上げるのがこの布教記念祭の内容であります。

この銀座の地に教会があることの意味、“難儀な氏子を助けたい”という金光様、初代大先生の東京布教にかけられた並々ならぬ思い、その実現のために「大先生になり代わって」取組まれた親先生のご信心。また難儀に苦しんでいた皆さんの親先祖がご神縁を頂いてこの尾広前に参り、初代、二代親先生のお取次を頂いておかげを頂いてきた事実を忘れないようにして、そのお礼を心から申せるようになりたいものです。

そうなるためには、まず足信心です。せいぜい教会に足を運び、月例祭にもお参りさせてもらって、“信心を分からせて下さい”とお願いするのです。足信心は嘘をつきません。このお広前には、大先生、初代、二代親先生の祈りとお徳が満ち満ちているのですから、もっともっと足を運び、おかげをこうむって頂きたいと思います。

(1/25月例祭)