湯川浩一(ゆかわこういち)
1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。
銀座教会長 湯川浩一
助かる道で助からん信心をしてはらなぬ
湯川安太郎玉水教会初代大先生は「助かる道で助からん信心をしてはらなぬ」とおっしゃっています。(湯川安太郎信話第一集第二章)
私たちは「神様どうぞおかげ下さい」とお願いをしていながら、どうしても心配でたまらないということがあります。お願いをしながら心配をするというのは神様に向かって「あなたは頼りないから、私が自分の力でやります」と、おかげのお断りをしているようなもので、それではとても助かりません。「助かる信心」というのは、自分の力でやろうとせずに、神様に一心におすがりして、一切万事をお任せしてさせてもらうということです。神様にお任せする以上、こちらは一切心配をすることはないのです。
そのためにはまず自分というものを知ることが大切です。自分は力に限りのある人間であるということ、神様に足りないところを足して頂かなくては安心して世渡りなどできない者であるということが「本当に分かれば助かる」と大先生はおっしゃっています。
そこが信心する上で一番大事なところだと言ってもよいのですが、ではどうすればそのような「助かる信心」ができるのでしょう。本教は「こうしてはいけない、しなければいけない」という強制がほとんどない自由なお道でありますが、やはり形というものも大切です。まず教会に足を運び、お広前でご祈念をさせて頂くことから始まって、お話を聞き、御結界でお取次を頂き、お祭りに参拝し、教会のご用をさせて頂くなど、だんだんと取り組ませてもらうとよいでしょう。
けれども、熱心に日参をし、ご用にも一生懸命取り組んでいれば、すぐにおかげにつながっていくかというと、そうとは限らないようです。外見だけ立派な信心をしているようでも、実際には家に帰れば物を粗末にしていたり、家族といさかいが絶えなかったり、仕事をいい加減にしていたりしていては、何十年信心をしても助かりません。初代大先生七十年祭の祈願詞に「信心は生活の業(たずきのわざ)」とありますように、信心と生活とは切り離せないものです。神様にお願いをしたら、自分もそのことに対して、神様と一緒に一生懸命に取り組ませてもらうということが大切なのです。
また一方で、不思議なことに一生懸命に信心すればするほど、おかげを頂くどころか、次々と難儀なことが起こってくることがあります。そんなとき「何で信心しているのに、こんなことが起こって来るのか」と愚痴を言いたくなるかも知れませんが、そこには神様の深い思し召しがあることを忘れてはなりません。
私たちは難儀なことがあってお願いをし、願った通りにことが進んだら、「おかげを頂きました」とお礼を申します。それももちろんおかげに違いありませんが、私たちの思いと神様の思し召しはどうも違うようです。神様が私たちにかけて下さっている願いというのは、そんな目先のことではなく、私たち一人一人が真(まこと)の信心をすることによって、二代三代と末々まで続いていく尽きぬおかげを受けて欲しいということなのです。
神様はその土台となる信心を私たちに求めておられます。その信心を分からせたいがために神様はあえて私たちを難儀な目に遭わせなさることもあるのです。「おかげを頂けなかったのがおかげであった」と大先生が言っておられるのはそこのことです。
ですから、信心の骨折りは無駄ではありません。難儀なことが起こってきたら、これは神様から信心のご催促だと思って、自分の改まるべきところを探し求め、元気な心で乗り越えさせて頂きたい。そして本当の尽きぬおかげを受けさせて頂きたいと思います。
(4/25月例祭 「銀座だより」2013年7月号「お徳の中で」より)









