湯川浩一(ゆかわこういち)
1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。
銀座教会長 湯川浩一
祈れ薬れにすればおかげも早いが
教祖様のみ教えに『祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ』とありますように、このお道では信心する人は医者にかかってはいけないとか、薬を飲んではいけないなどということは申しません。大切なのは、病気になって薬を飲むときにも、まず神様に「これから薬を飲ませて頂きます、どうぞおかげを頂かせて下さい」とお願いしてから飲ませて頂く心なのだと教えられています。湯川信直二代親先生は「この天地の中に天地の神様のお恵みを受けていない物はないのだから、薬も神様のおかげと思って有り難くお願いして頂かせてもらったらいい。きちんと神様にお断り申して、ちゃんと薬が効きますように、副作用などありませんようにとお願いして飲ませてもらったらいい」と教えて下さっています。
湯川安太郎玉水教会初代親先生の信話の中にも、信心と医療の関係について分かりやすくお話し下さっているところがあります。(信話第十六集第二章)息子の湯川茂二代二代大先生が急性肺炎にかかったときに、「信者さんの中には信心と医療の関係を妙に狭く考えて、医者にかかったらおかげを頂けないように思っている人がいるから、自分が手本を見せるのだ」と言って、医者の治療を受けさせます。容態が悪化し医者が悲観的なことを言おうが、初代大先生は少しもうろたえません。最後は神様と直談判をしておかげを頂かれます。このお話を通して大先生は私たちに「病気をしたら医者に診てもらい薬を飲んだらいい、でも肝心なのはそこに神様をどこまでも信じきるという信念があるかどうかである。そこを取り違えないように」と教えて下さっています。
ひるがえって、私たちの信心はどうなっているでしょうか。『祈れ薬れ』というみ教えは聞いて知ってはいますが、その頂き方は、形ばかりは薬を頂く前に神様にお願いしておりましても、「順序さえ間違えなければよいだろう」という程度のものであったり、時にはそれすら忘れて『祈れ薬れ』が『薬れ祈れ』に、また下手をすると『祈れ』が取れて『薬れ薬れ』になったりしてはいないでしょうか。
今は科学が進歩し、昔と比べると医療も薬も格段によくなりました。かえってそのために、昔のように一心に神様におすがりしていくということが難しくなっているように思います。けれども、薬を飲むにしても、薬が間違いなく効いてくれなくては治りませんし、医者に手術をしてもらうのでも、人間のすることですから間違いもあります。人間の働きの裏には神様がいて下さって万事にお繰り合わせを頂いているからこそおかげが頂けるのです。あくまでも、神様が医者や薬を使って治して下さるのだということを忘れてはならないと思います。
それを医者の一言一句にうろたえ心配をするのは、初代大先生のおっしゃっているように、「信心を医者に取られて神様を忘れてしまっている」ことになります。それでは頂けるはずのおかげも頂けません。「何があってもおかげは神様によって頂くのだ」という揺るぎない信念によっておかげを受けるのです。
これは健康の問題に限らず、生活の全般にわたってあてはまります。財の問題にしても、お金がたくさんあれば安心で、無くなると心配でたまらないというのでは、神様を拝んでいるのではなくお金を拝んでいるのです。仕事の問題でも、自分勝手に仕事をして、困ったときだけ神様にお願いするのでは、神様が主人なのか自分が主人なのか分かりません。
どんな時でも、まず神様にお願いをし、「神様にお任せしておかげを頂くのだ」という揺るぐことのない信念を持たせて頂く信心の稽古をさせてもらいましょう。
(3/25月例祭 「銀座だより」2013年6月号「お徳の中で」より)









