湯川浩一(ゆかわこういち)
1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。
お徳の中で 教会長 銀座だより1月号
銀座教会布教百一年目を迎えることになりました。玉水教会初代大先生、銀座教会初代親先生、二代親先生と受け継がれてきたご信心を頂いて、私たちが信心を進めていかなければなりません。 普通、信心と言えば何か問題があってお願いをすることから始まりますので、信心するということは参拝することで、生活とは別のように思われています。でも、このお道では生活そのものが信心で、お広前は願い礼場所、信心のけいこ場所と教えられています。 生活には様々な問題が生まれ、そのおかげを頂くことも大切なのですが、生かされて生きているもっと根本のことを知ることが大切で、それも頭で理解するだけでなく心で分かることが大切だと教えられているのです。 神様は私たちに心を分けてくださった心の親様で『おかげは和賀心にあり』と教えられています。と聞きますと,とてもむつかしくて出来そうに思えないのではないかと思います。でも最初から出来た人はいません。初代大先生も「出来ん、出来んが重なって出来るようになる」と教えてくださっています。 繰り返し、繰り返しして、出来なかったことが出来るようになることがけいこなのです。二代親先生のお話の中に「み教えを生活の中で実践していくのが信者」とあります。 どうしてこのような信心が大切かと言いますと、目の前のおかげを追い求めて頂いたおかげは、その場限りですが、心で分かって改まって頂いたおかげは消えることがありません。 信心は生活と別のところにあるのではなく、参拝してお話を聞いて生活の中で改まり実践していくことが信心なのです。ですからお広前は信心のけいこ場所なのです。 み教えは教祖様が神様から直接聞かれたお言葉であり、信話集や教話集のお話は、大先生や親先生がそれを実践されたお話で、お結界でのお話はあいよかけよの具体的な生き方のお話です。そのみ教えやお話を自分自身が生活の中で実践していくことが信心なのです。 学生ならば勉強が、また、それぞれの家業や人間関係そのものが、信心の現場なのです。 信仰での〈改まり〉は悪を善にする改まりではなく、生かされている本来の生き方に改まって生活していくことです。そして信心はどこまでも自分自身が、今までの思いや生き方を本来の生き方に改めて実践していくのです。その生き方を神様が喜んでくださっておかげになるのです。心は目に見えませんが、思いや心が変わって頂いたおかげは消えずに残っていきます。 私たちは、ついつい目先のことにとらわれたり、他人と比べたりして心が惑いがちですが、信心は心を神様に向けることです。神様は『信心しておかげを受けてくれよ』と私たちに頼んでおられます。『天に任せよ、地にすがれよ』『生きても死んでも天地はわが住家と思え』とも教えられています。 教祖様を通して神様が私たちに教えてくださっている本来の生き方がみ教えとして残されていて、それを生活の上で改まり実践して広大なおかげを頂かれた大先生、親先生の実体験のお話が、信話集、教話集として残されています。お広前に参拝してお話を聞いて、自分の生活の中で思いや生き方を改めて実践し、いつまでも消えないおかげを頂いていくのが私たちの信心なのです。目に見えない心の世界から目に見える現実の世界が生まれてきます。 この信心を、布教百一年を迎えて、次の百年に向かって実践していきたいと思います。