今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

お徳の中で 教会長 銀座だより11月号

 九月一日には初代親先生も二代親先生も関東大震災の話をされてきました。私もその話から始めたいと思います。
 銀座教会は大正十二年一月二十日に布教所を開設したところから始まります。
 木挽町(今は銀座四丁目)の、唐傘を半開きにしなければ通れないような狭い路地の奥の古い家だったそうです。初代親先生が「もっと広いところを」とお願いしていますと、神様から『八月の末には宿替え(引っ越し)をしなければいけない』とのお知らせを頂き、楽しみにしていましたが、八月の末になってもどこからも何の音沙汰もありません。
 そうしますと翌九月一日のお昼前に関東大震災が起こります。屋根の修理を業者から断られるほどの古い家であった布教所は瓦一枚も落ちずに持ちこたえたそうですが、あちこちから火の手が上がり、東京中が大火災になりました。被服廠跡の広場に避難した何万人もの人たちが猛火に包まれて焼死するなど被害者は十万人を超えたと言われています。初代親先生夫妻も避難して、お浜離宮で野宿することになります。
 初代親先生は焼け野原になった東京を見て「街は焼けても大地は死んでいない。東京の復興を願わせて頂くのが自分の役前」と思って、間借りした下宿屋の二階の一室のご神前に東京の地図を広げて東京の復興を願っていきました。でも時には「こんなところで東京の復興を願っていても」と思うこともあったそうですが、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言うではないか」と思い直して願っていったと話されていました。そうしますと焼けてしまった銀座の借地権が売りに出され、それを買い取ることが出来て、銀座小教会所が生まれたのが翌年のことでした。
 その教会も昭和二十年五月二十五日の空襲で焼失してしまいます。今度は仮広前のご神前に日本地図を広げて日本の復興を願っていきました。そうしますと翌年にお広前は復興しています。
 私たちは、難儀に遭わないようにとお願いしたいので、大震災があることが分かっていれば、わざわざその前に布教させないで、その後に布教させて下さればと思ったりしますが、大震災に遭っていたから売りに出された借地権をすぐに買い取ることが出来たし、生粋の関西人であった初代親先生が、大震災に遭った仲間として東京の人たちに受け入れられたことも、その後の布教にとっては重要な事であったと言われています。
 私たちは目先のことにとらわれてつい愚痴不足を言ってしまいがちですが、神様の思し召しは先々のことや深いところにあるのです。『いい事ばかりがおかげではない。悪いこともおかげである』と教えられていますし、『信心しておかげを受けてくれよ』と頼んで下さっている神様です。
 どうしても自分中心に考えてしまう私たちは、神様の思し召しがなかなか分からないで、愚痴不足を言って信心を失ってしまいます。「愚痴不足勝手勘定取り越し苦労はおかげの断り」だと教えられています。
 神様は『世間には難儀をしている人たちが大勢いる。取次ぎ助けてやってくれ』と教祖様に頼んでおられます。
 「東京で難儀をしている人たちを一人でも多く助けさせて頂きたい」という湯川安太郎玉水教会初代大先生の願いを受けて、大先生に成り代わってという思いを生涯貫き通してお取次ぎのご用をして下さった初代親先生。その信心を受け継いでお取次ぎのご用をしてくださった二代親先生、と百年続いてきたお徳が、このお広前にはあるのです。そのことを心に頂いて改めて信心を進めていくことが大切なのです。