今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

お徳の中で 教会長 銀座だより02月号

 秋のご大祭は教祖生神金光大神様のお祭りです。  教祖様が神様からお試しとも言えるお知らせを頂かれておられたころのお話ですが、ある年に神様から「今年は生麦のまま俵に入れよ」とのお知らせを頂かれて、教祖様は何の迷いも疑いもなく受けて生麦のまま俵に入れられた。  近所に住んでおられた鈴木久蔵という方がその真似をして生麦のまま俵に入れられた。すると、教祖様の俵には虫が湧かなかったのですが久蔵さんの俵には虫が湧いて隣近所まで迷惑をかけることになってしまったのです。そのことを教祖様が神様に申し上げられると神様から『形の真似は出来ても、心の真似は出来ぬ』とのお言葉があったと伝えられています。  湯川安太郎玉水教会初代大先生は、「心の真似は出来ぬ」と言われている「心の真似」とはどういう真似なのかと踏み込んで求めておられます。  そして、教祖様のご信心がどのようなご信心でおありになったのかを求めていかれて「一切万事何事も自分の力ですると思わずに、神様におすがり申して、神様の仰せのままに」と言う思いであったのではないかと話して下さっています。  教祖様は何年もの農作業の経験がおありなのですから生麦のまま俵に入れるとどうなるかはよく分かっておられたはずですが、神様の仰せのままに受けていかれています。これは教祖様のご信心の心構え、神様への心の向け方のお話ではないかと思います。  初代大先生も奉公先の問屋の主人が相場に手を出して倒産し、その後の身の振り方を金光様にお伺いされたときに金光様は『小売りをせよ』とおっしゃった。それまで問屋でまとまった大きな商いをしてきた者が、品物を一つ一つ売り歩く小売りなど出来ないと思われた。でも金光様のお言葉は神様のお言葉と受けて小売りを始められます。昼夜を問わずというほど働いて得意先も増えるのですが、掛け売りを始めた掛け金が集まらず、どうにもならないほど行き詰まられてしまいます。その時『世に天職と言うではないか』とのお知らせを頂かれて、「神様ご主人、自分は奉公人」という思いになられて大展開し、やがて玉水教会も銀座教会も生まれてくることになるのです。  私たちの心は神様から分けてもらった心で、神様は心の親様ですから、神様は私たちの心をよくご承知なのです。  『信心が一分違えば、おかげも一分違う』と教えられていますが、その違いは心にあるのだと思います。  私たちもお取次ぎを頂いて仕事をしたり生活をしたりしていきますが、自分の思い描いていたようになれば喜びますが、そうでなければ「どうして」という思いになって迷ったり愚痴不足を言ったりしてしまいます。「愚痴不足勝手勘定取り越し苦労」はおかげの断りと教えられています。  話を聞けば分かったように思うのですが、「心の真似」」はなかなか出来ません。でも出来ないからといってあきらめてしまうと、いつまで経っても出来ません。形の真似であっても、何度も何度も続けているうちに、少しずつ心の真似が分かるようになり出来るようになってくるのではないかと思います。  何事も自分の力ですると思わずに、神様におすがり申して、繰り返し、繰り返ししていくことが信心のけいこで、「出来ん、出来んが重なって出来るようになる」とも教えられています。  神様は私たちの心の親様であり、私たちが助かれば、神様も助かると言われている神様です。心を神様に向ける覚悟がどこまでできるかが信心にとっては大切なのです。