今月のことば

湯川浩一(ゆかわこういち)

1966年(昭和41年)二代教会長・湯川信直師長男として出生。
慶応義塾大学経済学部卒。1989年(平成元年)金光教教師拝命。
2006年(平成18年)信直師逝去の後三代銀座教会長に就任。

銀座教会長 湯川浩一

銀座教会長 湯川浩一

「辛抱」から「実意」へ

「銀座だより」2016年7月号 「お徳の中で」より   湯川誠一初代親先生の教話集にこんなお話があります。  ある所にお父さんと若い息子さんが二人で暮らしている家庭がありました。お父さんは毎朝早く起きて朝食の準備をし、それから教会へ参拝をして朝のご祈念を頂くのが習慣になっていました。  そこへ息子さんがお嫁さんを迎えました。ところが、そのお嫁さんは勝手気ままな人で嫁として親に仕えるということを知りません。お父さんが早起きして三人分の食事の準備をしていても起きてきませんし、お参りから帰ってみると若夫婦はご飯を食べた後で、お父さんの分だけ置いてある。それをお父さんは一人で黙って食べておられたということです。  こんな状態の中でもお父さんはお参りをしてお話を聞いていましたから、「嫁ではない。娘が来てくれたのだ。娘の気ままは成り行きに任せておこう」と思い、黙って辛抱をなさった。すると、八年たって、お嫁さんがようやく自分の非に気付き、「相済みませんでした」と詫びて、それから後は、お父さんと夫のことを思いやる生き方に改まり、やがて信心もなさるようになったというお話です。    この方はよく八年間も辛抱をなさったと思います。でも、初代親先生は辛抱だけでは出来なかったであろうと言われています。確かに“信心をしているのだから怒らないようにしよう。悔しいが黙っておこう″という辛抱であったら、いつか辛抱しきれなくなって爆発していたに違いありません。この方はお嫁さんのことを本当の娘だと思って、愛情を持って広い心で見守られた。それは“辛抱″ではなく、“実意″である。お父さんがそういう底抜けの実意を通されたから、時間はかかってもお嫁さんの心に通じ、おかげを頂くことができたと言うのです。  この神様は私たち氏子を助けたい一心の、おかげ下さる神様です。神様の方から私たちに手をついて『どうぞ信心しておかげを受けてくれい』と頼んで下さっている神様なのです。それは何とかわが子を助けたいという親心そのものです。  ですから、いい加減な信心しか出来ていない私たちであっても、神様はそれを百も承知の上で、御名を唱えてお願いすれば、「よし、信心しているな」と受け止めて下さりおかげを下さるのです。  この方も最初は“辛抱″でなさっていたのかもしれません。複雑な思いをされたこともあったでしょう。でも、神様にお願いしながら、思い直し考え直して行くうちに、神様が本当の“実意″へと導いて下さり、その実意がお嫁さんの実意にも通じて改まることが出来たのだと思います。信心をしておかげを頂くというのはこういうことなのですね。  私たちは人間関係がうまく行かないとき、あるいは子供が自分の思うとおりにならないとき、「あの人がこれに気付いて改まってくれますように」「子供が信心をしてくれますように」と一生懸命お願いをします。そのように願ってはいけないとは申しません。ただ、そう願う自分の心が真実なものであるかを見つめ直すことが大切だと思います。神様が私たちに掛けて下さっているような広い心でいるでしょうか。自分の都合や考えばかりで、相手を思いやることをせず、人を責めてはいないでしょうか。  湯川安太郎玉水教会初代大先生は「信心は自分の手許を見て改まっていくことが大切である」と言われています。人にとやかく言う前に、まず自分の心の中がどうなっているかを見つめ、改まりの工夫をさせて頂く。神様にお願いをしたら、後は自分のやるべきことを、実意を込めてさせて頂くだけ。そうすれば、自然とおかげが頂けるようになるのです。今日は“実意″とは何だろうと改めて考えさせられました。 (5/1月例祭)